日本には「街道」と呼ばれる、或いはかつて呼ばれた交通路が多く見られます。
街道は、遺跡や遺構だけでなく、史実の背景としての挿話なども数多く残されている貴重な舞台です。
歴史の証拠を訪ねる手段の一つとして、「街道」や「宿場」はとても興味深いものです。
自身の勉強のためにも、このテーマをここで掘り下げてまとめ、知識を深めたいと思う次第です。
日本の「街道」を掘り下げてみる
街道の定義
私たちは普段から気軽に「街道」という言葉を使っていますが、まずはその定義をあたってみたいと思います。
中央と地方、また町と町とを結ぶ、行政上、交通上の主要な道路。
小学館デジタル大辞泉
(比喩的に)大きな目標や目的に向かって歩む道筋・過程。
「優勝街道を突き進む」「出世街道をひた走る」
「つなぐ」こと。
ある地点から別の地点を結ぶ目的があるという点で、単なる「道」とは違う概念になるようですね。
地名とともに歴史に残る「街道」
日本国内に張り巡らされている、近世以前に通され、名の付いた(付いていた)街道は、大小合わせて500を超えると言われています(ルートが重なる道も多く、進行方向によって名称が変わるものもある)。
そして、その起源や名の由来もまちまちで、土地や文化の盛衰に沿って、各地方特有の味のある呼び名が付けられていた交通路が多かったようです。
そういう意味で言えば、有名な「五街道」は、徳川幕府が明確な一定の目的(行政・治安上の制御)を達成するために大規模に整備したもので、それまでの交通路とはかなり位置づけ(機能を明確にして公式名称も付与した)が異なるものと言えます。
明治以降、「街道」という言葉は、かつての交通路としての通称という扱いになっていきました。
近代国家の設計のため、全国の交通路に番号制を導入して国道と地方道の区別などを明瞭化することが必要だったためです。
ただ、目まぐるしく番号や指定区間が変わっていく中でも、かつての街道を継承する道の区間や経由地は大きくは変わりませんでした。
各時代の交通の発達と衰退にあわせて姿を変えたものも多くありますが、現在も幹線道路の脇に並行した生活道路として、その名称とともに残っている交通路も多くあります。
以下、歴史を追うかたちで「街道」の位置づけなどを見てみます。
古代:街道の概念はなかったか
統一国家が誕生する以前、地域ごとに「ムラ」程度の集まりで地域が集結し争いが繰り返されていた頃は、各ムラ間の人や物資の交流はあるものの、公的にも私的にも整備の行き届いた交通路(=街道)の概念はなかったと思われます。
飛鳥時代:「ムラ」から「クニ」へ、交通路の整備
畿内に天皇を中心とする統一政権が誕生すると、中央とその周囲の豪族が治めていた地域との交流や、海辺に面した港との間を行き来することを意識して交通路の整備が行われました。
山辺の道(奈良県天理市付近)、竹内街道・長尾街道(各大阪府堺市から奈良県葛城市付近)、太子道(大阪府、奈良県に複数存在)などが当時その名称で存在したと言われ、これらが街道の原型となったのではないでしょうか。
律令制・統一期:駅制や宿場の萌芽
大化の改新以降、徐々にではあったものの日本全土を統一した基準で治めるために律令制が制定され、時の権力者(朝廷・貴族)が各地の統治や租税の徴収を円滑に行うために各地を結ぶ交通路が整備されていったようです。具体的には、駅馬・伝馬などの駅制、治安維持機能を持つ関所のようなもの、宿場などがつくられました。
余談ながら奈良時代、交通路整備という行政の携わるべき案件の数々が、なぜか権力者でもない一僧侶の手により行われたそうです。
僧・行基(ぎょうき)。
彼は寺院や交通路を含む土木工事全般に類まれな知見を発揮して多くの街道や施設を整備したといわれています。驚くべきことに彼は、当時の仏教の布教活動に関して権力者と対峙しつつ、民衆の支持をバックにそれらの社会的事業を成し遂げたということです(後に、時の政権もその大き過ぎる業績を後援、相乗りするに至ったとされるます。なお、行基については、このような簡易な文章でその人物像や業績を説明し得るものではありませんが、ここではその詳しい業績は割愛します)。
中世前期:文化や政治のための交通整備
奈良時代から平安時代にかけて、中央政権が当時の中国に倣い「京(みやこ)」を積極的に造営するようになると、都市計画や道路計画も進化していきます。
また、政治的にも民間文化にも深く浸透しそれらの手段・目的となっていった神事・仏教の影響で、各地に神社や仏教寺院が建立されていきますが、それらの寺院と各地を結ぶ交通路が整備されるようにもなりました(この時期の主なものでは高野街道、熊野古道などがあります)。
そして、貴族の世から武家の世に時代は移り、それまで国の中心であった関西(畿内)以外に武家政権が誕生(鎌倉幕府)すると、必然的に朝廷のある京都と鎌倉を結ぶ道筋は重要視され、その交通路は長大な街道として発展することになりました。
中世後期:国盗りに欠かせぬ道の戦略
武士・豪族が群雄割拠する戦国時代には、人間(兵)の移動や物資の輸送(兵站)が大規模化され、交通路はさらに利用されることになりました。
平和という概念からは縁遠いこの時代でしたが、物流や貿易の発達を背景とした経済は盛んで、交通路や要衝はかつてないほどの価値を持つようにもなったわけです(関所・座・城下町・門前町など)。
近世:五街道の誕生
戦国を制した徳川江戸幕府は、今度は治世のために、一般旅行者や商人、諸大名が往来する重要な幹線道路を定め、それらに付随する支道や施設(脇往還、宿場町、道標、一里塚、常夜灯など)をも整備しました。
いわゆる「五街道」(東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道)の誕生です。
また、このころから観光としての伊勢参りが一般的になり、伊勢神宮と各地を結ぶ「伊勢街道(伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道など)」も整備されました。
この江戸時代に長く治世の時を重ねた日本の街道は、物流・観光とともに芸術文化にも影響を与え、人々の暮らしを支えていったと言えるでしょう。
近代以降:役目を終えた街道…鉄道とクルマの時代
明治以降、既に述べたように国策としての道が制定され、主要な街道は「国道」に指定されました。
但し、その頃からは陸上交通の主役が鉄道となりつつあったため、都心部を除いては道路そのものの大がかりな整備は行われませんでした。
二次大戦後、高度経済成長期に自動車が普及(いわゆる「モータリゼーション」)し、あわせて旧街道の舗装・拡張・付け替え(高速道など)が行われるようになりました。
但し、有用性の薄れた交通路、とくに山岳地域の交通路などは維持整備が行われずに廃道・廃路となったものも少なくありません。
各地に残る往時の跡
上述したように、現代にあってはかつての街道はそのほとんどが役目を終えましたが、今日でも、特に宿場周辺には往時を想像させる遺構などが見られます。
街道めぐり漫遊の際のちょっとした用語解説の意味も含め、その遺構などの確認したいと思います。
脇往還(わきおうかん)
脇往還とは、主要街道(江戸期以降は主として五街道)と接続する副次的な街道のことを指しますが、その追分(おいわけ:街道と街道の分岐点を指す)は特に賑わった場所として旧跡(追分の名を付した地名や道標など)が確認できます。
脇往還は、脇街道(わきかいどう)、また単に脇道(わきみち)とも言われました。
本陣・脇本陣
本陣(ほんじん)は、 江戸時代以降の宿場に置かれた、高位の者のみ利用の許された宿のことで、脇本陣(わきほんじん)はそれに次ぐ格式の宿のことです。
宿場間の距離が短い、或いは宿場自体が小規模の場合など、本陣そのものが置かれなかった場合もあり、また休憩所としてのみ使われた本陣もありました。
原則として一般の者を泊めることは許されておらず、参勤交代旅程の大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡らが利用していたそうです(脇本陣については一般客を泊めることが許されていたようです)。
建物は、宿役人である問屋や、村役人である名主などの居宅が指定されることが多かったようです。
問屋場(といやば・とんやば)
江戸期の街道の宿場で主に人馬の継立、助郷賦課などの業務を行っていたところで、駅亭、伝馬所、馬締とも呼ばれました。
問屋場へは、問屋をはじめその助役の年寄、事務担当の帳付(書記)が詰めており、馬指とか人馬指という人馬に荷物を振り分ける者がいました。
また、飛脚の手配業務などを行っていたのもこの問屋場で、なかでも幕府公用の品物や書状を運ぶ継飛脚(つぎびきゃく)はとても重要な仕事とされていました。余談ながら、各地に残る「伝馬町」などの地名はこの問屋場由来であることが多いです。
関所
関所とは、公的な防御の拠点施設のことを指し、古くは「大化の改新の詔」にその存在が見られます。
当時、基本的に軍事防衛が関所の主要な役割でしたが、中世以降は「関銭」という通行料を徴収する交通利権徴収施設の意味合いが強くなっていったようです。
ただ、江戸初期に入ると、幕府は大名の謀反を抑えるために本来の軍事拠点としての関所を53ヶ所も設置して有事に備えました。
やがて、政権安定期を迎えて関所の役割も治安維持のための警察的機能へと遷移していった模様です。
江戸期の関所建物として現存するのは、新居関所(東海道-静岡県)のみとなっています。
一里塚
街道を通る旅行者の目印として1里(約4km)毎に設置された塚(土盛り)のことです。
平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われていますが、全国的に整備されるようになったのは五街道からであったとされています(1604年の徳川家康の発令による)。
一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、道の両側にそれぞれ一対、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げその上に樹木の植栽がされていました。
道標(どうひょう・みちしるべ)
街道では石造のものを良く目にしますが、文字通り道案内を目的としたものです。
石で作られたものも多く、風雪に耐えてきた往時のものも残っていて味わいがあります。道案内をすることにより何らかの功徳を求める信仰心によって建てられたものもあって、造立者名や年月を刻んだものも見られます。
並木
江戸時代の街道を特徴づけるものの一つに並木があります。
天高く空をつく松や杉は、風除けとともに街道のありかを知らせる標識の役目も果たしていました。
そして今も整備されつつ残っている並木があります。
升形(枡形:ますがた)
升形とは、外敵を容易に侵入させないための独特な道の造りのことで、主要部(宿場町であれば本陣や脇本陣)に一直線にたどり着けないよう、出入口からの道路を2度直角に曲げて造るものです。
元々は戦国期以降に城を守るために採用されていた機能(一の門と二の門の間に升形道路が設けられる)でしたが、江戸期の宿場町設計にも、防衛の観点から援用されました。
常夜灯(じょうやとう)
その名のとおり、現代でも普通に使用する、「一晩中つけておく灯り」をしめす言葉です(街燈のこと、或いは部屋の小さい灯りのことをこう呼んだりします)が、街道においては大型の構えの石灯篭(いしどうろう)のことをこう呼びます。
常夜灯は、現代と同じく街燈の役目をはじめ、往時は宿場や港町、分かれ道の目印としても設置され、また集落の中心や神社などでは信仰の対象としても造られました。
街道沿いに往時のまま残されているというものは数少ないながら、宿場のシンボルとして再建されたものを良く目にします。
旅籠(はたご)
公用の宿である本陣や脇本陣に対して、旅籠は主として一般旅行者向けに営業されていた食事付きの宿のことを言います。
元々は宿場の宿のことのみを指していましたが、後年はあらゆる民間の宿を旅籠と呼ぶようになったようです。
高札場(こうさつば)
高札(こうさつ・たかふだ)とは、法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法のひとつです。
そして、この高札(表題・本文・年月日・発行主体を記した木の札)を設置した屋根付きの掲示場所を高札場と呼びます。
高札の制度が江戸期から本格的に運用されるようになったことから、当然、人の多く集まる宿場に設置されることが多くなったようです。
但し、土台以外は木製の構造物であったため現存しているものもごく稀で、こんにち見られるものは復元されたものがほとんどです。
まとめ
この記事では、日本の街道についての歴史や遺構についての情報などをまとめてみました。
なんと言っても街道は歴史の生き証人。古来から各時代の政治・経済・文化の舞台として存在してきた経緯があり、時代の遺構や伝承などが様々なかたちで残されています。
文化遺産・国宝など公のお墨付きを得た絢爛たる建造物や文物から、路傍に佇む名も無き石仏まで、すべて街道を通して、自然もうまく利用しながら人の手によって造られてきたものばかりです。
しかし、そういった文物を我々が気軽にみることができるのも各地元や有志の方々の多大な努力があってこそ。我々もそれらの努力に感謝しつつ歴史を実感させていただき、更に後世へ何某かを伝える協力が出来ればと思うこの頃です。
次の記事では、本稿の続編として日本全国の街道についてその名称をリストアップしていますので、ご興味がありましたらご覧ください。
下記は、「五街道」をそれぞれまとめた記事です。
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