筆者は旅好きを自認していますが、自身着々と齢を重ね、以前にも増して名所旧跡や神社仏閣の見聞を求めるようになってきているようです。人生の終末を肌身で感じ、古(いにしえ)の自身のルーツの知識を本能的に欲してきているのでしょうか。
ただ、年を経るにつれ、いろいろな神社仏閣やその縁のモノや逸話などに触れる際に自身の無知・無教養を虚しく思うことも多くなってきました。
そこで、自身の旅や観光を少しでも充実したものにするため、この場を利用して神社仏閣の根源のひとつである「日本の仏教」についてざっくり(じっくりではありません)まとめることとします。
はじめにお断りしておきますが、以下の内容は、中学生時代のおさらいプラスアルファといった程度のものです。筆者程度の造詣でよろしいという方のみおつきあいいただければ幸いと考えていますのでご容赦ください。
ざっくり、仏教をかじってみます。
日本の仏教の概要
日本の仏教の概要をとらえるため、その現在の姿や宗派を整理したいと思います。
日本の仏教を数で見てみる
日本には、約7万5000の寺院、30万体以上の仏像が存在する。日本最古の官寺である四天王寺、世界最古の木造寺院である法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本に存在する。
日本は2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる 。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを仏教徒と強く意識する機会が少ない人も多いが、ブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。
Wikipedia
施設数に関して言うならば、もう少し新しい詳細なデータである2016(平成28)年12月31日現在の文部科学省の宗教統計調査によると、寺院数は7万7,256だそうです。
神社の数は更に多く8万1,158にものぼるということですが、小さな祠なども数に入っているため規模の比較としては参考にならないかもしれません。
職として関連する人の数で言えばどうか。
神社の神職数が約2万2千人に対して、寺院の僧侶数はなんと約34万人。
やはり宗教的に言えば日本は仏教の国と言えるのかもしれません。
ついでながら、都道府県別の寺院数でいうとどこが最も多いか皆さんはご存知でしょうか。
京都府?奈良県?東京都?…。
正解は筆者が現在住んでいる愛知県の4,589件でした。これは本当に驚きました。参考までに2位が大阪府の3,396件、3位が兵庫県の3,289件ということで愛知県は断トツです。
多くの宗派 覚えるべきは…
日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在する。十八宗と呼ばれる18の宗派は、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗である。
1940年の宗教団体法公布以前にはいわゆる13宗56派が公認されていた。13宗とは華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。同法公布後、これら13宗56派は28宗派に再編され、第二次大戦後はさらに分派独立したものが多いが、伝統仏教の13宗の系譜はいずれも現代に引き継がれている。
Wikipedia
やはりいくつかの資料を見ても、この13宗派(明治政府が公認したことに由来)が仏教の柱とされており、勝手ながら、伝統仏教と呼ばれるこれら13宗を何が何でも頭にいれておくことにします。
華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗…の13宗。
正直、18宗の分類のほうでは、大変申し訳ないのですが、融通念仏宗・普化宗・修験宗については、筆者の知識にはありませんでした。
仏教の経典は約6000巻!
信奉する経典の違いによって宗派が分かれてしまったため、多くの宗派ができてしまいました。
13宗派の分類
13宗派をそれぞれ分類し、日本における開祖・本山などをまとめます。
奈良仏教系(南都六宗系)
- 華厳宗(けごんしゅう)
開祖は審祥ら、本山は東大寺(奈良県)。 - 法相宗(ほっそうしゅう)
開祖は道昭(道照とも)、本山は興福寺・薬師寺(奈良県)。 - 律宗(りっしゅう)
開祖は鑑真(鑑真和上)、本山は唐招提寺(奈良県)。
密教系
- 真言宗(しんごんしゅう)・東密
開祖は空海(弘法大師)、本山は東寺(東寺真言宗)、高野山金剛峯寺、醍醐寺(醍醐派)、智積院(智山派)、長谷寺(豊山派)、根来寺(新義真言宗)ほか。 - 天台宗(てんだいしゅう)・台密
法華円宗とも 開祖は最澄(伝教大師)、本山は比叡山延暦寺法華系(鎌倉仏教法華系)。
浄土教系
- 浄土宗(じょうどしゅう)
開祖は法然(源空・円光大師・黒谷上人・吉水上人とも)、浄土宗(鎮西流)総本山は知恩院。法然の弟子証空の門流は西山三派といわれ、本山は光明寺(西山浄土宗)、禅林寺(西山禅林寺派)、誓願寺(西山深草派)。 - 浄土真宗(じょうどしんしゅう)
真宗・一向宗とも開祖は親鸞、本山は本願寺(浄土真宗本願寺派・西本願寺)・真宗本廟(真宗大谷派・東本願寺)ほか。 - 融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしゅう)
大念仏宗とも(平安仏教系との考えも)開祖は良忍(聖応大師)、本山は大念仏寺。 - 時宗(じしゅう)
開祖は一遍(法諱は智真、証誠大師・円照大師とも)、本山は清浄光寺(遊行寺)。
禅系(鎌倉仏教禅系)・禅宗系
- 曹洞宗(そうとうしゅう)
開祖は道元(承陽大師)、本山は永平寺・總持寺 - 臨済宗(りんざいしゅう)
日本における開祖は栄西(千光国師)ら、本山は建仁寺・円覚寺・妙心寺・東福寺ほか - 黄檗宗(おうばくしゅう)
旧臨済宗黄檗派 開祖は隠元(真空大師・華光大師)、本山は黄檗山萬福寺
日蓮系
- 日蓮宗(にちれんしゅう)
開祖は日蓮(立正大師)、総本山(「祖山」という)は身延山久遠寺浄土系(鎌倉仏教浄土系)。
日本の仏教の歴史
やはり歴史を追わなければ物事の本質には迫れません。
時代考証的に仏教の歴史をみてみましょう。
時代・時の政権により揺れ動く仏教
仏教伝来から飛鳥時代
仏教伝来の年号には二つの説があります。538年と、「日本書紀」にある、飛鳥時代の552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとする説。
更に「日本書紀」には、仏教が伝来した際から飛鳥時代にかけてその是非について様々な政治的な事件が起こったことが記されていますが、この時代の統治者の一人である聖徳太子(厩戸皇子)によって仏教というものが公認されていったことは確かなようです(物部氏と蘇我氏の政争で、神道と仏教が相対し、蘇我氏側についた聖徳太子により仏教信仰が国家鎮護の道具として用いられていった模様)。
仏教の布教のために用いられた具体的な方法として、聖徳太子の手による「法華経」・「維摩経」・「勝鬘経」の三つの経の解説書である「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」や、仏・法・僧の三宝を敬えと説いた「十七条憲法」などが有名です(現在では聖徳太子の業績や、その存在自体に諸説あり)。
奈良時代
時は移り、やがて仏教の宗派も多様化し、南都六宗と呼ばれた三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めたとのことです。信仰に篤い聖武天皇が、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造(奈良の大仏:752年)したことでもその隆盛のほどがうかがえます。また唐から招かれた鑑真が律宗を確立、東大寺を中心に戒律を広めたのもこういう時期でした。
民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って、畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教(法相宗)を説いた「行基」という高僧がいました。権力と対峙しつつ社会事業にも多くの功績を残し、遂には権力者側(聖武天皇)から行基に近づきその功を称えるまでになったということです。
大僧正(僧の最高位)を贈られたのも、行基が最初であったとされます。
平安時代
桓武天皇の平安京遷都(794年)は、政治的にも影響力の強くなり過ぎた既存の奈良仏教寺院らの弱体化を諮るための手段の一つであったとも言われています(遷都には水害を避けるという実質的な意味もあったようです)。
また、当時唐で流行となっていた密教を輸入して奈良への対抗勢力とするため、最澄(後の伝教大師)と空海(後の弘法大師)を遣唐使の一員として中国に遣わせました。そして両名の帰国後、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせたということです。ー 厳密には、国の官僧として唐に赴いた最澄に対し、空海は無名の志願留学生であったため、両名とも「遣わされた」という表現は正しくないかもしれません。結果、密教の「一部」しか持ち帰れなかった最澄は、その情熱と才幹をもって唐で巨大な成果を得た(真言密教の正嫡第8世法王となった)空海に、後に密教について師事することになりました。 ー
平安時代中期は末法思想(当時は釈迦入滅の二千年後にあたり、仏教が滅びる暗黒時代とされ、どんなに努力しても誰も悟りを得ることができず、また国も衰えて皆現世での幸福も期待できない時代であるとされた)が広まり、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行したということです。
現に社会不安の増大から治安も悪化し、寺院も盗賊や暴徒などから自身を防衛するために信者や僧侶が武装化を進めるようになりました。しかし、いわゆる「僧兵」と呼ばれたその者たちは、次第に各々の組織の勢力拡大の武装集団と化し、対立宗派のみならず朝廷や当時の行政に対しても脅威となっていったようです。
国風文化とも呼ばれる当時の格調高く優雅な文化とは裏腹に、世の中の乱れは深刻で、仏教も荒れていたようです。
鎌倉時代
平安時代末期からの動乱で仏教にも変革が起こり、それまでの仏教の主流が「鎮護国家」という政治目的のみのために利用されていたものが、この時代に次第に民衆の救済のためのものとなっていったということです。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、ここでも新しい宗派が起こっていきました。
それまでの宗派と違い、難解な理論や厳しい修行、寄進を前提とするのではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような簡単でとっつき易い教え(易行)が説かれています(「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続けることで救われるとする浄土宗、悪人正機の教えを説いた浄土真宗、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗)。
また、他方では中国から輸入された臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が「武士」という新しい階級層に好まれ繁栄し、禅寺の建立も相次ぎました(当時の禅寺の代表的なものを「鎌倉五山〈建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺〉」といいます)。
南北朝・室町時代
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、「京都五山〈南禅寺を別格とし、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺〉」が成立します。
南北朝時代以降室町時代に至っても、以前から武士に好まれた禅宗である臨済宗は足利政権幕府に保護され、「五山」の格付けも時の将軍による政略的変遷を経ながら成立していました。
このような武家と仏教界の接近は文化にも大きな影響を及ぼし、室町北山文化や東山文化などに顕れています(水墨画・書院造・茶の湯・生け花・庭園など)。
一方で、地方や庶民の間では曹洞宗が、京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した模様です。
戦国時代・安土桃山時代
応仁の乱(1467年から約十年)を経て、武家(諸大名)間の闘争が激化しました。
そして、仏教界も治安の悪化と相まって武力を伴う宗教戦争のような様相をみせます(法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など)。
また、加賀国の本願寺門徒らが中心となった一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、以降約80年に渡って国を支配するという事態となりました。石山本願寺などは大名家のような強固な組織となり、のちに織田信長の軍門に降るまでその勢力は守護大名や戦国大名と拮抗し続けていました。
信長の天下統一には全国の有力大名に加え仏教勢力を抑えることも必要だったわけです(延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦など)。
信長没後、時の支配者となった豊臣秀吉も、自身に敵対する仏教勢力を武力で屈服させ(根来寺や高野山)、さらに行政・政略的にも寺社の統制を進めました(有力寺社の懐柔や大坂城下への移転促進、刀狩りなど)。
江戸時代
前時代における仏教勢力のあり方は、統治者にとっては世俗的野心や教義の荒廃とみなさざるを得なかったため、徳川幕府も初期から仏教を取り締まりの対象としました(寺院諸法度の制定、寺社奉行の設置など)。
また、人々を必ずいずれかの寺院に登録させて(寺請制度)布教活動を封じ、当時最大の勢力であった浄土真宗の本願寺を東西に分裂することで弱体化をはかり、全国の修験道も、聖護院を本山とする本山派と、醍醐寺を本山とする当山派のいずれかに属するように規制しました。
1654年に来日した明の隠元隆琦は黄檗宗を新たに布教していますが、当初は臨済禅宗の正宗としていくつかの大名の保護を受けていた模様です。
1665年に江戸幕府は寛文印知と諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制(檀家制度)を行いました。また、幕府は学問を奨励していたため、各宗派で檀林、学寮などと呼ばれる学校が整備され、教学研究が進んだ一方で、新義・異議は禁止されていました。
江戸期の仏教界では、行政官として以心崇伝や天海が仏教を含む世の統制を担い、信仰の実践や学究の分野では鈴木正三、鉄眼道光、慈雲、白隠らが活躍しました。
明治時代
明治新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ寺院数が減少しました。
各宗派も教義や制度の近代化を余儀なくされ、宗門大学の設立等の教育活動や社会福祉活動に進出していきます。
尚、教義や宗派に関わらずこの時期以降に起こった国内すべての宗教は「新宗教(新興宗教)」とされているためここでは触れません。
大正時代~こんにち
近代の政府も様々な法令や通達によって宗教を管理してきたましたが、統一的な法典としては1940年施行の宗教団体法が最初であったとされています。
そして1951年には認証制を導入した宗教法人法が施行され、各種の規制が撤廃されました。
宗教法人法は、信教の自由を尊重する目的で、宗教団体に法人格を与えることに関する法律で、所管官庁は文化庁となっています。
まとめ
以上、日本における仏教というもののあり方を本当に簡単ではありますが整理、勉強してみました。
仏教というものがいかに日本の庶民の人心や文化に溶け込んでいるかということを再認識できたとともに、時の権力者や為政者によって都合良く利用されてきた(逆に仏教が権力を利用して栄枯盛衰を繰り返してきたとも言えます)こともよくわかります。
また、仏教という切り口でその背景をさらっただけでも、人間の本質は千年以上前からあまり変わっていない様子がうかがえて大変興味深く感じました。
今後少しは、寺社仏閣を訪れた際の予備知識にはなるのではないかという思いはあります。
筆者は単純に文化・歴史としての側面のみ興味があったため、その信仰内容などには深く立ち入りませんでしたが読者の皆様の感想はいかがだったでしょうか。
ネット情報や入門的な書物を読みながら自分なりにまとめ記事にしましたが(内容に疑問がある場合は複数の出典を確認するなどし、不明な点は割愛しました)、誤りや疑義がありましたらご指摘いただけると幸いです(あまりに専門的なことは応答・議論すらできませんが…)。
長い文章にお付き合いいただきありがとうございました。
美しい風景を眺めたり、未知の文化に触れたり、美味しい郷土料理を楽しんだり…、「旅」というものは、それだけで非日常を体感できる本当に貴重で楽しい機会です。
しかし、そこに、少しでも歴史や地理などの予備知識などを加えて、もっと「旅」を充実したものにしようという考えが、いつからか筆者の「旅」の基本的なスタンスとなっています。
押しつけがましいかもしれませんが、歳を経て人生の儚さを知るようになった筆者に少しでも共感いただけるようであれば、またこのサイトが皆様の楽しみのほんの一助になれば幸いに思います。
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