戦国歴史の主役と言えば、「三英傑」、天下人である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。
奇しくも、同世代に、同じ東海地方で邂逅した天才たち。
その苛烈な生き様と、互いの奇縁とも言える絡み合いを浮き彫りにするべく、今回この3名の事績を中心に、彼らが駆け抜けた時代をまとめてみました。
この年表を見れば戦国時代後期の流れは大体掴めると思います。
戦乱を肯定するわけではありませんが、何度見ても、この戦国トーナメントは興味深い…。
信長・秀吉・家康 合同年表
以下の年表では、期間を信長誕生から家康死去までとし、織田信長の事績は赤字、豊臣秀吉の事績は青字、徳川家康の事績は緑字、それ以外の重要事件は黒で表記しました。
尚、それぞれの事績は、時系列等も含めできる限り最新の有力説を取り上げるようにしていますが、少なからず諸説があるため、必ずしも真実とは限らない場合がありますのでご了承ください。
織田信長 尾張うつけ殿の天下布武
- 1534年
- 信長 – [出生] 尾張 勝幡城主 織田信秀次男として生誕。生母は土田氏、幼名は吉法師。
- 1537年
- 秀吉 – [出生] 尾張 足軽の(木下)弥右衛門の子として生誕。生母はなか、幼名は日吉丸?
- 1542年
- 家康 – [出生] 三河 岡崎城主 松平弘忠長男として生誕。生母は於大の方、幼名は竹千代。
- 1543年
- 光明寺に預けられる。
- 1546年
- [元服] 尾張 古渡城にて。織田(三郎)信長を名乗る。
- 1547年
- [初陣] 駿河の今川義元の威嚇侵攻に対し、三河の吉良大浜に進軍。
- 1548年
- 尾張 織田家の人質となる(今川家に人質として赴く途中に織田に攫われた)。
- 1549年
- 父・織田信秀と美濃の国主・斎藤道三が和睦。道三娘の濃姫と婚姻し、道三の娘婿となる。
- 駿河 今川家の人質となる(尾張織田家との人質交換)。
- 1551年
- 駿河 今川家家臣の松下之綱に仕官。
- 1552年
- 父・織田信秀死去。織田家の家督を相続。
- 1553年
- 傳役の平手政秀が自害(信長の日ごろの行いを諫めるためだったと言われる)。
- 「川中島の戦い」:甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信との間で、北信濃の覇権をかけて争われた合戦の総称で、1564年までの12年に及ぶ。大きな合戦は5回に及んだが、双方にとってあまり戦果はなかった。
- 1554年
- 尾張守護代・織田彦五郎を討ち清洲城を奪い城主となる。
- 織田信長に奉公人として仕える。この頃は(木下)藤吉郎と名乗る。
- 1555年
- [元服] 今川家で元服。松平(次郎三郎)元信と名乗る。後、(蔵人佐)元康に改め。
- 1556年
- 義父である美濃の斎藤道三が、子の斎藤龍興に討ち取られたが、その際、道三が遺言状で美濃を信長に譲る旨を告げる。変事を聞いた信長は道三を救出に向かうが叶わず。
- 1557年
- 弟の信行を清洲城に誘い謀殺。
- 今川義元姪の築山殿と婚姻。
- 1558年
- [初陣] 今川義元の命を受け、織田家に寝返った鈴木日向守を攻めた。
- 1559年
- 岩倉城を攻め織田信賢を追放、事実上尾張国統一を達成。
- 京都上洛、室町13代将軍・足利義輝に謁見。
- 築山殿との間に長男・信康が誕生。
- 1560年
- 「桶狭間の戦い」:尾張に侵攻してきた今川義元を奇襲で破る。
- 「桶狭間の戦い」:今川義元軍として出陣し尾張 大高城に兵糧入れを行う。義元が討ち取られ敗走となるが、これを機に岡崎城に戻り松平家当主として独立し、松平家康と名乗る。
- 「桶狭間の戦い」:織田軍の足軽として従軍。
- 1561年
- 杉原定利娘(浅野家養女)のねね(後の高台院)と婚姻。
- 1562年
- 「清洲同盟」:信長と家康の間で結ばれた軍事同盟。信長は、美濃の斎藤氏と交戦している経緯から三河方面の脅威は好ましくなかったことが大きな理由。
- 「清洲同盟」:信長と家康の間で結ばれた軍事同盟。家康は、「桶狭間の戦い」後に今川家から独立して敵対関係となったため、その後ろ盾を必要としていたことが大きな理由。
この同盟関係は、戦国の世にあって極めて稀有なことに、この後約20年間、信長が没するまで機能することとなる。
- 1563年
- 小牧山城主となる。
- 三河で大規模な一向一揆が勃発。この一揆には一部の徳川家臣の加担などがあり、家康は当初窮地に陥るが、苦戦しつつも巻き返していった。
- 1564年
- 前年に起きた一向一揆を鎮圧。引き続き今川方の吉田城や田原城を攻略し事実上三河国を統一した。
- 1565年
- 永禄の変:将軍・足利義輝が三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され殺害された。後、足利義栄が将軍宣下を受けるまでの約3年間は室町将軍は空位となっている。
- 1566年
- 信長の命を受け、美濃侵攻のため墨俣城を築く(墨俣の一夜城普請)。
尚、終生、秀吉の右腕として尽力した蜂須賀小六正勝は、この頃から与力として秀吉に従っている模様(正勝は野盗集団の番頭であったという話が有名だが、実際は小なりとも尾張土豪の出であり、野盗出身というのは後世の創作によるものとされる)。 - 松平姓を改め徳川家康を名乗る。朝廷から従五位下三河守の叙任を受け、新田氏系統の清和源氏であることも公認となる。
- 信長の命を受け、美濃侵攻のため墨俣城を築く(墨俣の一夜城普請)。
- 1567年
- 美濃の斎藤龍興を滅ぼし、稲葉山城を奪取する。また、城下の地名を岐阜と改称し、城も岐阜城と名付ける。尚、この頃から「天下布武」の朱印を使用し始める。
- 北近江の浅井長政に妹のお市を嫁がせて同盟を結ぶ(上洛に備えたルート確保が大きな目的であった)。
- 竹中半兵衛を与力軍師として迎える。
- 1568年
- 14代将軍・足利義栄が将軍宣下を受けるが、約7か月後に病死。義栄は、将軍となりながら上洛を果たせなかった。
- 足利義昭を擁して上洛し、義昭を15代将軍として奉じる。上洛途上、近江守護である六角義賢親子を観音寺城の戦いで降し、更にその上洛戦の勢いをかって畿内を支配下に収める。
- 信長に従い上洛。途上の観音寺城の戦いで活躍。上洛後は明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任される。
- 1569年
- キリスト教伝道師であるルイス・フロイスと会見し、保護を約束する。
- 1570年
- 「金ヶ崎の戦い」:信長は、徳川との連合軍で、越前国・朝倉義景を討伐するため同国へ出兵したが、織田同盟軍であった北近江・浅井長政の裏切りに遭い敗走。
- 「姉川の戦い」:いったん退避した信長は体制を整え再度進発し、浅井・朝倉連合軍及び六角義賢軍と近江国で激突。今度は前哨戦を併せ2ヶ月近くに及ぶ合戦を制した。
- 「金ヶ崎の戦い」:秀吉は、織田軍武将として従軍。信長敗走に当たり、明智光秀らと共に織田軍敗走の殿(しんがり)を務める役目を果たし生還、戦後信長より多大な恩賞を受ける。
- 「姉川の戦い」:秀吉は、金ヶ崎の戦いから生還すると、家臣の竹中半兵衛とともに浅井方の武将を次々と調略し、戦前のお膳立てを整えつつ織田軍武将として従軍。
- 「金ヶ崎の戦い」:家康は織田との連合軍で、越前 朝倉義景を討伐するため同国へ出兵したが、織田同盟軍であった北近江 浅井長政の裏切りに遭い信長とともに敗走。
- 「姉川の戦い」:再び織田との連合軍として、浅井・朝倉連合軍と激突しこれを破る(激戦に終止符を打ったのは徳川軍の側面攻撃だったと言われる)。
- 本拠地を遠江に移し、浜松城を築城(地名を曳馬から浜松に改名したことによる)。
- 1571年
- 比叡山の僧兵勢力を警戒していた信長は、延暦寺を焼き討ちを断行。戦後処理は功の大きかった明智光秀に任せる(光秀は比叡山麓の坂本に築城し、信長配下として初めての城持ち大名となる)。
- 信長の命で、比叡山延暦寺焼き討ちに従軍。
- 1572年
- 「信長包囲網」:この頃、大坂の本願寺を軸に北の朝倉・浅井両氏、南の松永・三好両氏、さらに甲斐の武田信玄も加わり、織田信長の大包囲網が形成されていた。また、将軍 足利義昭も幕府再興のため反信長勢力を助長し、暗躍を続ける。
- 将軍 足利義昭に行動制限のため17条の意見書を突き付ける。
- 遂に西上侵攻を開始した武田信玄に対して、同盟関係の家康とともに抗するが、遠江 三方ヶ原で惨敗を喫する。
- 甲斐 武田信玄が遠江・三河への侵攻開始。家康は信長に援軍を要請し、佐久間信盛らの加勢を得るも、一言坂・二俣城・三方ヶ原で武田軍に敗れる。
- 1573年
- 武田信玄が病死。
- 真木島城で挙兵した足利義昭を攻め、投降させたのち追放。事実上室町幕府は滅亡した。。
- 浅井・朝倉連合軍との再三の激戦に勝利し、近江国を制覇する。
- 北伊勢一向宗を攻め降す。
- 信長より北近江を与えられる。この頃羽柴秀吉と改名。
- 1574年
- 伊勢長島一向一揆を鎮圧(約2万人を焼き殺す?)。
- 近江 長浜城の城主となる。
- 1575年
- 「長篠の戦い」:徳川軍との連合で三河 設楽ヶ原にて武田(勝頼)軍を破る。
- 本願寺勢の講和を受け入れ一時的に和睦する。
- 嫡男・信忠に尾張・美濃を与え家督を譲る。
- 「長篠の戦い」:織田軍武将として従軍。
- 「長篠の戦い」:織田軍との連合で、三河 設楽ヶ原にて武田(勝頼)軍を破る。
- 1576年
- 安土城を築城、城主となる。
- 本願寺討伐に出陣するも、本願寺支援の毛利水軍の横槍を受け苦戦。
- 信長長女の徳姫を家康の長男・信康に嫁がせる。
- 1577年
- 雑賀・根来の一向一揆討伐のため出陣。滝川一益・明智光秀に命じて雑賀を攻めさせてこれを降す。
- 「手取川の戦い」:既に信長と対立を深めていた越後の上杉謙信が、能登を平定するため出陣。能登 七尾城を巡り織田軍(総大将は柴田勝家)と激突しこれを破る。また、このとき謙信は、中国の毛利輝元に促され上洛も目指していたとされる。
- 「信貴山城の戦い」:信長は信忠に命じ、謀反を起こした松永久秀を、大和・河内の国境にある信貴山城で攻め滅ぼす。この戦では織田軍武将として筒井順慶らが活躍。
- 秀吉に命じ、西播磨、但馬を攻め両国を制圧する。
- 建造した甲鉄船で本願寺勢を駆逐して大坂湾の制海権を握る。
- 「手取川の戦い」:信長の命で能登で上杉軍と戦闘していた柴田勝家を支援するため合流従軍するが織田軍は敗戦。
- 信長の命で、中国地方侵攻のため播磨に出陣。黒田官兵衛を先導役として播磨・但馬を攻略してゆく。
- 1578年
- 上杉謙信が急死。
- 摂津国守護の荒木村重が本願寺勢と結び、信長に謀反し有岡城で籠城。信長はこれを攻め落とした(村重は中国の毛利家の援軍を期待していたが叶わず。村重自身は一族を犠牲にして落ち延びた後隠遁)。
- 1579年
- 家康長男の信康に嫁がせた徳姫による訴状により、家康に命じて信康を切腹させる。
- 側室の愛子(母が三河の名族の出)との間に三男・秀忠(後の江戸幕府2代将軍)が誕生。
- 信長からの疑惑を晴らすため、家康は正室の築山殿を殺害し、長男の信康を切腹させる。
- 1580年
- 秀吉に命じ、播磨 三木城を落とし同国を平定する。
- 丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与える。
- 朝廷の斡旋により本願寺と和議を結び、長期に渡ったいわゆる「石山合戦」に終止符。これは、室町幕府滅亡後に信長支援にまわった公卿の近衛前久の尽力が大きかった。
- 播磨 三木城を落とし、城主の別所長治を切腹させる。
- 1581年
- 能登国を前田利家に与える。
- 甲斐に侵攻、天目山で武田氏を滅ぼす。
- 高天神城を武田氏から奪還して遠江を平定。
- 1582年
- 武田氏が領有していた駿河国を家康に贈る(清洲同盟以来の信長と家康の関係であったが、この当時、実質的には家康に対して家臣のような遇し方をしている)。
- 信長は、当初四国全土の支配を許す約束していた土佐の長宗我部元親に対し、土佐以外を返上するよう脅迫する。取次役だった明智光秀は面目を失う。
- 「本能寺の変」:信長が中国 毛利軍との決戦に向かう途上、京都・本能寺で明智光秀の謀反に遭い自害。また、後継者である織田信忠も明智軍に囲まれ自害。
- 信長の命により、毛利輝元攻略のため総司令として出陣。
- 「本能寺の変」:対毛利軍の陣中(備中松山高松城攻め)で信長死去を知り、即講和をまとめて主君信長の仇を討つため明智光秀征討へ乗り出す(中国大返し)。
- 「山崎の戦い」:備中高松城の攻城戦からわずか7日で摂津国まで引き返してきた羽柴秀吉が、摂津国と山城国の境に位置する山崎で、明智軍と激突。織田信孝とともにこれを討った(明智光秀は敗走中に落ち武者狩りに遭い死亡)。
- 「清洲会議」:織田家老臣の柴田勝家が、信長の後継者と領土の分配を決定するための会議を召集した。この席で秀吉は、信長の三男である信孝を擁立しようとする勝家に異を唱え、信長の嫡男・信忠の子である三法師(織田秀信)の擁立を主張。丹羽長秀らほかの重臣の賛意を得て自ら後見人となり、信長亡き後の天下人への道を歩み始めた。
- 京都の大徳寺で織田信長葬儀。秀吉は、信長の四男で自身の養子でもある秀勝を喪主とし、信長の位牌を手に参列。世間に信長の後継者であることをアピールした。
- 「本能寺の変」:堺滞在中に信長の死去を知る。狼狽し自害を決意するも、重臣の本多忠勝に諫められ翻意。伊賀越えを経て(諸説あり)岡崎城へ帰還。
- 織田政権の承認のもと、甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有する。
豊臣秀吉 史上最も出世した男
- 1583年
- 「賤ヶ岳の戦い」:近江・伊勢・美濃を舞台とした秀吉と柴田勝家との戦い。秀吉が勝利し、織田信長の継承者となることを決定づけた。
尚、敗れた勝家は妻のお市(信長の妹)とともに越前 北ノ庄城で自害。お市の娘の浅井3姉妹である茶々(後の淀殿)・初(後に京極家に輿入れ・常高院)・江(後に徳川秀忠の正室となり3代将軍・家光の生母となる・崇源院)は秀吉が保護した。 - 前田利家に加賀国2郡を加増。
- 「賤ヶ岳の戦い」:近江・伊勢・美濃を舞台とした秀吉と柴田勝家との戦い。秀吉が勝利し、織田信長の継承者となることを決定づけた。
- 1584年
- 「小牧・長久手の戦い」:秀吉が織田信雄を政権から排除しようとして両者の仲が険悪化するなかで起こった羽柴軍と織田(信雄)・徳川連合軍との戦い。
尾張北部を主要舞台としたが、様々な勢力を巻き込み全国規模の合戦となった。局地戦では織田・徳川軍が優勢であったが、織田信雄の単独講和により秀吉包囲網が瓦解し、家康も三河へ帰国した。 - 「小牧・長久手の戦い」:秀吉が織田信雄を政権から排除しようとして両者の仲が険悪化するなかで起こった羽柴軍と織田(信雄)・徳川連合軍の戦い。
尾張北部を主要舞台としたが、様々な勢力を巻き込み全国規模の合戦となった。局地戦では織田・徳川軍が優勢であったが、織田信雄の単独講和により秀吉包囲網が瓦解し、家康も三河へ帰国した。
- 「小牧・長久手の戦い」:秀吉が織田信雄を政権から排除しようとして両者の仲が険悪化するなかで起こった羽柴軍と織田(信雄)・徳川連合軍との戦い。
- 1585年
- 羽柴秀長に命じ、大軍で四国攻めを断行。四国の王であった長宗我部元親は土佐一国のみを安堵され許された。
- [関白宣下] 従一位関白宣下。
- 1586年
- 正親町天皇より豊臣姓を賜り、豊臣秀吉と名乗る。
- 天正大地震が起こる。
- 天正大地震の影響もあって、秀吉は徳川家康に対して武力に拠らない融和策に転じ、懐柔を試みる(秀吉の妹・朝日姫を家康に嫁がせ、母の大政所も人質として送る)。
- 秀吉からの要請に応え上洛し、臣従を誓う。その後居城を浜松城から駿府城へ移す。
- 1587年
- 「九州の役」:1586年から続く、豊臣軍による、島津氏をはじめとする九州平定戦。
最終的には薩摩の島津義久を降伏させた。 - 京都 北野天満宮で大茶会を主催し、世間にその威容を誇る。
- 「九州の役」:1586年から続く、豊臣軍による、島津氏をはじめとする九州平定戦。
- 1588年
- 前年に建造した豊臣氏本邸である聚楽第に後陽成天皇を迎え、家康をはじめ全国の有力大名に自身への忠誠を誓わせた。
- 1589年
- 側室・淀殿との間に鶴松が誕生。秀吉はこの子を後継者に指名する。
- 1590年
- 「小田原の役」:関東へ出兵し、相模 北条氏の小田原城を攻め降伏させた。
- 「小田原の役」:秀吉の命で従軍。後、関東に移封され江戸城に入城する。
- 1591年
- 淀殿との間の子の鶴松が病死。
後継者を失った秀吉は、甥の秀次を養子として関白職を譲ったが、自らは太閤として実権は保った。 - 弟の豊臣秀長が病死。
- 淀殿との間の子の鶴松が病死。
- 1592年
- 「文禄の役」:明の征服と朝鮮の服属を目指して、宇喜多秀家を総帥とする16万の大軍を朝鮮に出兵。戦況は膠着状態となり、翌年には明との講和交渉が開始された。
- 1593年
- 側室の淀殿との間に拾丸(後の豊臣秀頼)をもうける(秀吉にとって三男・庶子)。
- 1595年
- 関白秀次に謀反の疑いが持ち上がり、それを契機に、秀吉の命で秀次は流罪・蟄居、切腹となる(実子・拾丸の誕生で、秀吉が秀次を疎んだためとも言われる)。
- 事実上の五大老(徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景)を任命する。
- 1596年
- 「慶長の役」:文禄の役での明との講和が決裂したため、秀吉は小早川秀秋を総帥として再度出兵し、朝鮮に足掛かりとなる城郭を建造させる(のち秀吉死去によって全軍撤退)。
- 1598年
- 大坂城完成(現在の大阪城は徳川期のもの)。
- 秀吉は死の直前、嫡男・拾丸(豊臣秀頼)成人までの政治運営にあたっては、五大老(既に病没していた小早川隆景を欠く)と石田三成ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命し、「五大老・五奉行」を制度化した。
- 大阪城で病死。
- 秀吉により豊臣政権の五大老筆頭に任命される。
徳川家康 耐えに耐えた苦労人が将軍に
- 1599年
- 前田利家死去。
- 利家死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、大阪城で秀頼の後見となる。中央において家康を掣肘する存在がなくなった。
- 1600年
- 「関ヶ原合戦」:美濃国不破郡関ヶ原での東西軍による天下分け目の合戦。東軍の家康が西軍に勝利し事実上の天下人となる。戦後、石田三成は、家康の命により刑死。
東軍:徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成。
西軍:毛利輝元を総大将とし石田三成・宇喜多秀家らを中心に結成された反徳川・親豊臣の同盟。
- 「関ヶ原合戦」:美濃国不破郡関ヶ原での東西軍による天下分け目の合戦。東軍の家康が西軍に勝利し事実上の天下人となる。戦後、石田三成は、家康の命により刑死。
- 1601年
- 東海道・中山道の伝馬制を整備。
- 1603年
- 征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。
- 家康三男の徳川秀忠の娘である千姫を、豊臣秀頼に輿入れする(秀吉の遺命であったとされる)。
- 1604年
- 徳川秀忠と正室の江(浅井長政と、信長の妹であるお市の娘)の間に次男・竹千代(後の江戸幕府3代将軍・徳川家光)誕生。乳母はふく(後の春日局)。
- 1605年
- 将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、自らは大御所となる。
- 1607年
- 駿府城に移る。
- 1614年
- 「大阪冬の陣」:徳川幕府と、豊臣宗家とその親派との大坂城を舞台とした合戦。
豊臣軍は、淀殿を中心に明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆ほか、募集した浪人勢が戦力。
豊臣重臣の大野治長の案で大坂城籠城戦となったが、最終的には和議を結んだ。
- 「大阪冬の陣」:徳川幕府と、豊臣宗家とその親派との大坂城を舞台とした合戦。
- 1615年
- 「大坂夏の陣」:「冬の陣」は一応の和議を見たがその内実はくすぶり続け、豊臣家の完全な武装解除を求める家康に対し、警戒を解かない大坂方との間で再度の合戦が起こった。
終局では、幕府軍が優勢となり、大坂城は陥落して秀頼と側近32名は自害し、豊臣家は滅亡するに至る。
尚、この戦いを境に応仁の乱より断続的に続いていた大規模な戦闘が終焉し、歴史的にはこれを元和偃武と言う。
- 武家諸法度・禁中並公家諸法度を公布する。
- 尾張 名古屋城完成。以後明治維新まで尾張徳川家17代の居城となった。
- 「大坂夏の陣」:「冬の陣」は一応の和議を見たがその内実はくすぶり続け、豊臣家の完全な武装解除を求める家康に対し、警戒を解かない大坂方との間で再度の合戦が起こった。
- 1616年
朝廷より太政大臣に任じられるも、駿府城で病死。
まとめ
この記事では、「戦国三英傑」織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の合同年表をまとめてみました。
この三英傑に絞って時代を整理してみると、彼らがいかに多忙であったか、また相互の因縁の絡み合った関係であったかがよくわかります。
読書やドラマ鑑賞、史跡めぐりなどの簡単な確認の目安としていただければ幸いです(私も忘れっぽいのでよく見直します^^;)。
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